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人の意見なんていうのは、その人が何に価値を感じるか、言い換えればその人が「何に魅了されたか」で変わる。
論理的だろうが人道的だろうが嘲笑的だろうが奇抜だろうが、つまるところ「何に魅了されたか」である。

その人が何に魅了されたかを知ることは、「その人そのもの」の価値を計る上でデカい。
自分が魅了されたものを大して何も感じない人の意見は、自分からすればその意見から「自分の価値を感じているものを何も感じず踏みにじるような」感覚を受け取り、「何もわかってない」とか「あんな素晴らしさを分からない、むしろこんな簡単に切り捨てるなんて」とか思って、その人そのものの価値を疑う。
ということで結局、みんな独りよがりなんでしょう。
自分が魅了されたものを否定されれば「バカだ」と腹が立ったり嫌気がさしたりする。
それはそれで自然だし良いかと。

みんな独りよがり、そう思うと自分の魅了対象が踏み潰されないよう争い守りつつも、お互い広い目で見ればそれぞれの主張も「魅了されたものが違うが故」ということでどこかで理解はできる。
しかしそうなると個人的に受け入れられなくなるのは「多数派であること」に魅了される人の意見。そこに「対象の内容」がなく、扇動者によって意図的に意見が180°変わりうる。これは独りよがりと真逆の構図となる。これの気に入らないところは、そういう「言い換えれば何の内容にも本当はたいして価値を感じていなく、要は自分が人から認められたいだけ」的な軽々しい部分だけでなく、独自性が無いことで新たな価値・魅入る対象を生み出すことができない、という部分にある。多数派に乗っかってそうこう価値を乗り換えているうちに、知らず知らずに何も価値を感じるものがなくなる、クレームを恐れた良い子ちゃんバラエティが全くつまらなくなるようなものかと。
しかしこういう「多数の魅力を感じる心」は多くの人の中に部分的に存在する。自分の中の一部にも確かに存在し、その悦に浸る時の自分が浅はかで忌まわしい。
先ほど、自分が魅了されたものを否定されれば「バカだ」と腹が立ったり嫌気がさしたりする、と言ったが、その逆に自分が魅了されたものを肯定されれば嬉しい満ち足りた気持ちになる。これがまさにその「多数の魅力」に魅入られている自分の一部である気がしてならない。
独りよがりなくせに「他人に認められたい・評価されたい」などという助平な根性がある。
そういう不純で醜い部分が人としてリアルに自然とも言えるし、人から認められたいという感情は、一人よりも多数と協力できた方が生き易いという生存欲求でもあるのかもしれない。
そもそも社会然り、生の価値は自分一人で生み出すものではないし、魅入られる対象も自分以外の何かであろう。嫌うも好くも「他者」とは切り離せない関係にある。

しかししかし、かといって「多数派の魅力」を一番に据えるほど開き直っていいものでもないと思うのである。あくまでそれは一部分。その一部分のせいで誰しも純粋に独りよがりを実現できないし、言ってることがちぐはぐになったり変わったりしてしまうものではあるのだけれども、
それでもできる限り「自分の魅入られたもの」を一心不乱に追い求め続けて一生を終えられるような道を選んでいきたいなと思ってしまうし、人のそういった部分にこそ、その人の純粋なる価値の片鱗を見出していけて、新たに人が魅入るようなものを生んでいけるものではないかな、とも思われるのであり。

頑張れそういう人たち!負けるな謝るな!

と。いうことですいませんでした。
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